「もう一度言ってください!」
フィニッシュエリアの横で行われた優勝者インタビューの最後に、パトリック・ランゲはグレッグ・ウェルチ(インタビュアー)にリクエストする。
『あなたはアイアンマン世界選手権3勝の王者です。パトリック!』
そうアナウンスされると、今一度あふれ出る感情を噛みしめるように目を細め、拳を握りしめた。
木曜日に起きた出来事
レース2日前の男子プロアスリート記者会見。
これまで幾度となく戦いの舞台を変えながらしのぎを削り合い、もうお互いの手の内を知り尽くしているライバルたちが顔をあわせる場は、いつもどおり和やかな光景ではあった。
今回、バイクで後続に決定的な差をつけてそのまま逃げ切りたいサム・レイドロー(フランス)。それに遅れることなく、あわよくはバイクパートの主役に躍り出てアドバンテージを築くシナリオをもつマグナス・ディトレフ(デンマーク)。
そして、今回競合するアスリートの中では万能型といえるクリスティアン・ブルンメルト(ノルウェー)はバイク終了時まで好位につけ、8月のアイアンマン(IM)フランクフルトでも見せたラン(2時間32分29秒)の破壊力を発揮したいところ。
さらには、そのランパフォーマンスを上回る爆発力を有するパトリック・ランゲ(ドイツ)もいる。
その会見で主催者、そして集まったメディアから投げかけられる質問のほとんどは、選手にとっては想定内のものだったといえるだろう。
そういった中、眼の前にいる記者たちに代わってパトリック・ランゲが突然クリスティアン・ブルンメンフェルトに質問を投げかけた。
「プロサイクリストに転身するという野望はどうなった? 僕らは君のその姿を見ることができるのだろうか」
今回のレースはアイアンマンの世界チャンピオンが4人出場。そのひとりとなるクリスティアン・ブルンメンフェルトはもちろん優勝候補の筆頭として注目されていた
これは今夏に欧州メディアが、「ブルンメンフェルトはパリ五輪終了後、2025年からプロサイクリングチームと契約し、ツール・ド・フランス出場を目指す」という報道を発信し、一時大きな話題になったことに関しての問いかけだった。
「ただの噂でしょう。よくあるような」とだけ返すブルンメンフェルト。
同様の質問を抱いていた現地記者も多かったのではないかと推察できるが、会見趣旨にはそぐわないといえる内容を、登壇者自らが投げかけるというユーモアとサプライズに会場では笑いが起こっていた。
ただ、その中で僅かながらでも張り詰めた雰囲気を感じた人はいたのではないだろうか。
アイアンマンという聖域
当然のことながらランゲはブルンメンフェルトをリスペクトしている。
「若いアスリートたち、特にノルウェーのふたり(ブルンメンフェルトとグスタフ・イデン)はこのスポーツを急速に発展させてきている。素晴らしいことです。それは私たちにも影響を与えていて全体の押し上げ、競技の進化にもつながっています。土曜日(大会当日)はかつてない最高のレースが見られるでしょう」という、ランゲの同会見での発言は、彼らノーウィ―ジャン・デュオへの最大限の賛辞でもあった。
一方で、これまでこのワールドチャンピオンシップを2度制し、長年にわたりロングディスタンス界を牽引してきたという崇高な、そして純粋とも評することができるプライドの持ち主であろうランゲ。彼はいかなる状況であっても、自身の競技者としての聖域に許可なく立ち入れられることは認めないはずだ。
スイムを4番目でアップしたランゲ。続くバイク、ランと完璧なレース運びでレースを支配した
そして今回のハワイ。
彼が1年で最大のハイライトと位置づけ、競技人生を捧げてきた特別なレースだ。
この場ではツール・ド・フランスもプロサイクリングチームも関係ない。
ロングディスタンスの最高峰を目指し、ただ愚直にトライアスロンと向き合い、時間を費やし続けてきた者たちが戦う舞台を前に、ランゲ自らまわりの雑音を払拭したかったのではなかろうか。
「私の神聖なる場を荒らすな」と。
会見の場に緊張感が走ったとするならば、その警鐘だったに違いない。
想定の位置取り。予想以上のペース
果たして、注目され続けてきた土曜当日のレースは、前半からバイクフィニッシュまでの有力選手の順位が、ほぼ関係者たちが予測していた範囲内の展開となっていた。
スイムをトップと変わらない位置での2位で終えたサム・レイドローは、バイクに入ると間もなく先頭に立ち独走。ただし180kmを3時間57分22秒という、自身の持つバイクレーコードを7分も上回る脅威的なラップを叩き出したという点だけは、想像を上回るシナリオだったろう。
そして、スイムでライバルたちに遅れを取ったマグナス・ディトレフ(写真上)も、当然のようにバイクでジャンプアップ。
パトリック・ランゲ、ブルンメンフェルトはその後方で形成された10人を超えるパック内にて、着々と自身のレースプランを進めていた。(ハワイでは今年初めて導入されたシステム『レースレンジャー』で、ドラフトゾーンはしっかりと管理されていたようだった)
一方で選手たちにとっても想定外であったろう点はバイク全体のハイペース。
ラップではレイドローに続く上位6人も一昨年のレーコードタイムを更新するという高速展開が、ランに入ってからの調子の良し悪しに多大な影響を与えることとなった。
そして、「バイク終了時点でレイドローと6分以内の差なら逆転できると思う」と記者会見で語っていたブルンメンフェルトは、(レイドローから)8分遅れでランパートに移行。この時点で彼が描いていた青写真は陰りを見せ、バイクのオーバーペースが影響したのかランの走り出しから精彩を欠き順位を落としていく。
対するランゲは快調にランへと進む。バイクフィニッシュはブルンメンフェルトの後方だったもののT2を出てすぐにパス。その追い抜く瞬間にはブルンメンフェルトへ声をかけていた。
何と言ったのかは定かではないが、アイウエア越しからも分かる激しい表情からも、間違いなく力強いエールが投げかけられていたはず。「最後までがんばれ!」といった激励だったか?
レースの本質が現るランコース
バイク終了時にマグナス・ディトレフに6分、ランゲ、ブルンメンフェルトに約8分の大差をつけてランに入ったレイドロー。
昨年のニース世界選手権での快走は記憶に新しく、後続とのマージンを見るとそのまま逃げ切るのではないかと多くの人が思ったのではないだろうか。(ニースでは2位に約6分差でランスタート)
実際、レイドロ―は走り出してから10km過ぎまでは淡々とラップを刻み、自身のプランどおりレースを進めているようにも見えた。
しかし、パラニ・ロードの坂を上りきりハイウェーに入ると間もなくペースがガクンと落ちる。カルア-コナを見守る神は気まぐれだ。やはりこのレースは最後の最後まで何が起こるかわからない。
T2を飛び出してからしばらくは快調なペースを維持していたレイドロー。そのあとバイクの大きなツケがまわってこようとは……
一方で快調にピッチを刻み続けたのがランゲ。
まだペースを落とす兆しを見せていなかった前半のレイドローに対しても、5kmで1分ずつ追い上げていた。つまり42kmで8分以上タイムを縮める計算で、仮にレイドローが失速しなかっとしても最後までもつれ込むであろう、素晴らしいペーシングだった。
勝者が示す哲学
昨年、ニースで行われたIM世界選手権を2位で終えたとき、ランゲはこう振り返っている。
「スイムで出遅れてバイクも厳しかったのですが、今日は自分のもっているすべてを注ぎ込めました。トップには届きませんでしたが、最後まで可能性を捨てずに走りきれたことに本当に満足しています。それが私たちのスポーツの本質だと思うのです」
実直に競技に取り組み続け、やれるだけのことをやる。そして現実を受け止め、決して最後まで諦めない。
今回、ランゲが繰り出し続けたランニングのハイピッチには、そんな彼の哲学、そして生き様が刻み込まれていたようにさえ見える。
ちなみに彼はエナジー・ラボに入る前、レイドローを抜く瞬間にも本人に声をかけている。
憔悴し切った、前回王者に似つかわしくない姿に励ましのことばをかけずにはいられなかったのたろう。最後まで諦めるなと。(レイドローはランで途中何度か歩きながらも18位でフィニッシュしている)
2位に粘ったマグナス・ディトレフ(左)と追い上げて3位を手に入れたルディ・ヴォンバーグ(右/アメリカ)
38歳となったが、次世代を構築するヤングラオンたちとの渡り合いにも『まだまだできる』と自分を信じ続けてきたというランゲ。
「これからもっと最高の日が来ると言い続けてきました。誰も信じていなかったと思いますけども」「今日がその日です。人生最高のレースでした」
さらには、「ただただ感謝の気持ちで一杯です。この場(レース)にいられることに本当に感謝しています」とも。
勝者の条件とも表せようか。そんな感情を持ち揃え、勝つための力に変えていけることを大一番で証明してみせたランゲは、ランラップ2時間37分34秒をマーク。フィニッシュでは7時間35分53秒のコースレコードまでも樹立している。
また、前回優勝の2018年から6年を経ての勝利は、アイアンマン世界選手権で最長の(勝利の)間隔だという。
まさに記録ずくめとなった男子アイアンマン世界選手権に、再びランゲの名が刻まれることとなった。
3位表彰台を獲得したヴォンバーグ(右)は、昨年の世界選手権ニース大会では4位に粘っている。写真左は今回大健闘した4位のレオン・シェバリエ(フランス)
【プロ男子上位リザルト】
1位 パトリック・ランゲ(🇩🇪ドイツ) 7:35:53
2位 マグナス・ディトレフ(🇩🇰デンマーク) 7:43:39
3位 ルディ・ヴォンバーグ(🇺🇸アメリカ) 7:46:00
4位 レオン・シェバリエ(🇫🇷フランス) 7:46:54
5位 ミーノ・クーハス(🇳🇱オランダ) 7:47:22
【 レースダイジェスト動画を視聴する(↓)】